さて、初めてのマックを使い出した頃は?(・_・;)?だらけの毎日でした。
TV局の技術さんのK氏に
「お前、パソコン借りたのはいいけど、ソフトはどうするの?フォントは?AVボードは?」
と質問され、全く何のことか(@_@;)分からなかった私。
だいたい、パソコンがあったら、何でもできると思っていたし、フォントってなぁに?チーズフォンデュなら知ってるけど・・というレベル。
K氏は、あきれて、ブツブツ文句(--〆)を言いながらも、いろんな手配をしてくださったのです。
とっても感謝。(今はすごいエライ人になっている)
さて、94年、10月から始まった、大モニを使ったコーナーは、放送に間に合うか。間違いがないか。と作っているほうは、心臓がドキドキハラハラ(私じゃなく、うちのスタッフが作っていたのだが)
また、作っている最中にパソコンが落ちたり、大切なデータに上書きしてしまったりとトラブルも続出。最初の2週間は、緊張のあまり毎日オンエア終了後にトイレに駆け込んで、もどしていました。
不思議なことに、オンエア中は全く「うっ」っとならないのです。
さて、そんな3カ月後。あの日がやってきます。95年1月17日 阪神淡路大震災。
当事、字幕テロップは「紙焼き」と言われる紙で印字されたもの。1枚作るのに専用の機械と熟練の職人技が要求されたのです。また物理的にプリントアウトするので時間がかかるのです。
紙焼きのテロップが間に合わない中、アナウンサーが繰り返し情報を読むだけしか出来ない。映像も間に合わない。
そんな中、「おい、これで文字打たれへんか?」と言う事を、あるディレクターが言い出しサブ(スタジオの横)のマックが大活躍したのです。
その後5日間。24時間体制で、ずっと文字スーパーで情報を伝え続けました。「今自分たちができる事」それが、全国の人に「助けてくれ」のメッセージを情報とともに文字で伝えることでした。
1週間たち、私は報道の手伝いで長田の焼け野原にいました。現地スタッフは半分が東京からの応援。半分は関西スタッフ。非常に温度差を感じました。
「2人のおばあさんが、ガレキの下で見つかった。生きている。ガレキの下で、お互い壁をコツコツたたき、お互いが生きているのを、確認して励ましあっていたらしい」
その話を聞いて、私と一緒にいた関西のスタッフは手をとりあって喜びました。その時東京のスタッフが「おい、それ映像とれてるの?」と冷静に聞きました。「映像はありません」との答えに「じゃあ、ダメだな」との声。
映像が無ければテレビでは取り上げられない。確かにそうかもしれない。特に当時のテレビでは常識的な考え方でした。
でも本当に、その映像がなければTVは無力なの?そうでは無いはず・・・映像が無いなら目に見えるものとして映像の代わりとなる何かを作ればいい。
そこにCGやパソコンの可能性を、感じたのでした。
池田由利子
株式会社P-CUBE 代表取締役社長